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あんたが使い込んだんじゃないの?

「お姉ちゃん、使い込んだんじゃないの?」

「冗談じゃないわよ!お父さんが病気になっても何の手伝いもしないで!こんなときだけ出て来るなんてあさましい!あんた恥ずかしくないの!?」

「まあまあ、姉ちゃんたち二人で揉めるのはいいけど、俺も貰うものはしっかり貰わないと納得しないよ。」



ある家庭で79歳の父親が亡くなった。
肺癌を患い、入退院を2年程繰り返した上での往生だった。

妻は6年前に他界。子供は長女・次女・長男。
実家で父と一緒に暮らしていたのは長女家族だった。


揉める相続。

相続と言うのは片方が全く関与していない場合、例外なく揉めることになる。

「まだ他の銀行に預金が残ってるんじゃない?銀行からは言ってこないから調べないと!」
「土地や株はどうなの?親父そういうの昔やってたことあったじゃない?」

正直、遺産相続のときほど人間の本心が出て来る場面もない。

相続については、兄弟が二人以上いれば揉めるケースが多くなる。兄弟同士ならまだいい。
兄弟の配偶者まで絡んできた場合、それは大部分が欲絡みのネガティブな方向に進んでしまう。
結局、この家族は今も4年以上、裁判を続けている。

しかしこんな例は枚挙に暇がないのだ。


こんな状況を避ける唯一の方法がある。

それが、遺言書を作ることだ。




遺言書はお金持ちの方だけのものか?

「ウチは金持ちじゃないから、遺言書はいらないよ。」
そう言う人は少なからずいるものだ。

しかしご存じだろうか。意外と知られていないのだが、遺産相続で揉めるのは実は
財産が5,000万円以下のケースが圧倒的に多い。
ちなみにここまでは相続税がかからないケースがほとんどだが、そうであるがゆえに、
誰がどれだけ遺産をもらうかに関心が集まり、揉めるのかもしれない。

だから『ウチは金持ちじゃないから必要ない。』と言うのは間違いなのだ。

相続関連だけは、揉め始めると本当に先の長い仕事になる。
それもこれも、遺言書さえあれば避けられることなのだが・・・・・・・

通常、依頼者は亡くなった人物。しかしその後相手にしていくのはその方の家族だ。
遺言書の作成に数多く携わってきた弁護士・飯田稔は言う。

「遺言はトータルで観て、ご本人とご家族にとって一番良い方法を考えることが最善策です。」
自分が死んだ後で、家族が空中分解することなど決してあってはならない。
だからこそ、あなたにもこの『遺言書』をどうしても意識して欲しいのだ。



若き父の願い。

「遺言書の作成を依頼したいのですが・・・・」

「はい。では詳しく教えて頂けますか。」


ある日、弁護士・飯田稔のもとを訪れたのは初老と言うにはまだ早い男性だった。

「・・・・遺言を作成するにはまだお若いと思うのですが、なぜでしょうか?」
疑問に思った飯田が男性に尋ねる。


男性は小さく深呼吸し、胸のあたりをさすりながら語り始めた。


「井口と申します。・・・・実は私、肺がんのステージ3でして・・・・・妻には3年前に先立たれて、まだ14歳の一人息子がいます。
彼に遺してやるべきものや私の身内に託すもの、その他にも考えなければならないことがたくさんあります。
それを一からまとめ上げる手伝いを、先生に依頼したいのです。・・・・時間がありません・・・・・お願いできますか?」

男性の強く真剣な眼差しに圧倒されながらも、飯田も力強く答えた。
「もちろんです。お役に立たせてください!」

ようやく授かった一粒種。

父親は57歳。30代でソフトウェア開発の会社を興し、堅実な性格ゆえに成長を続け、今や売上高も15億円にまで上り、自らもそれなりの資産を築いた。
子供は彼が43歳の時、3年前に子宮がんで亡くなった妻との間に結婚7年目にしてようやく授かった一人息子だと言う。再婚はしていない。

会社の事業承継についても説明をしたところ、男性は息子ではなく従業員に引き継がせるか、
他に売却することを希望。飯田は必要な税務対策等を助言した。

「息子の勇人は14歳ですから、一人暮らしは無理です。話はこれからなのですが、
私の妹のところで成人までの間、面倒を看てもらいたいと考えています。
その場合は妹にも養育費といくらかの費用という形でお金も遺さないといけません。」

「息子さんはお父さんの今の状態をご存じなのですか?」

「妻も子宮がんで亡くなったものですから、もしかしたらと思っていると思います。
そのことを思うと死ぬことは心残りなんてもんじゃありません。本当につらいです。
・・・実は今日も病院から外出許可をもらって来ています。・・・・今後は許可も下りにくくなるはずですから、
先生にも病院の方にお越し頂かないといけなくなると思います。大丈夫でしょうか?」

「もちろん。お伺いしますのでご安心ください。」
飯田はそう力強く答えた。

やるべきこと。

この件の場合、遺言書作成でやるべきことは4つ。



       ●財産目録
       ●相続人及び相続分の確定

       ●親権者の指定
       ●その他葬儀等について


遺産相続について、息子が若い、ということへの心配もある。
過去にあった例だが、引きこもりの一人息子が受け取った遺産を短期間ですべて使い切ってしまった、という出来事もあった。
この時はそれを機に働くことを決意したという良い結果になったのだが・・・・・ そんな点も含めて考えなくてはならない。

何事も、問題が起こってからでは取り返しがつかないこともままあるのだ。

飯田からの提案。

「息子さんに財産を残すにあたって、こんな方法もあります。」

飯田が考えたこと。それが『遺言信託』というものだった。
弁護士または信託会社に遺産管理を委ね、父親の決めた内容に従って遺産を息子に渡すというものだ。

父親が決めた内容はこうである。
・ 子供が20歳になるまで、毎月10万円ずつ渡して欲しい。そしてそれは引き取り手である妹夫妻に渡すこと。
・ そして20歳から30歳になるまでは毎月20万円ずつを本人に渡すこと。
・ そして30歳になったときに残りの全額を渡すというものだ。

父の最期。

飯田は度々病院に通った。実は手術はもうできないと言われている。
相談者は日に日に弱くなっていく。体重もどんどん落ち、会うたびに顔が変わっていくのがわかる。
もちろん、悪い意味でだ。

この間にも、遺言書を少しずつまとめ上げていった。抜けている項目はないか。
内容の精査もだ。

会社は№2である妹の夫に譲ることにした。妹夫婦を呼び、飯田同席のもとで今後の
円滑な事業承継に向けて何度も話し合いを持った。
息子を引き取る件についても快く同意してくれ、問題らしい問題も起こらないまま進む。こういったケースの方が稀だ。


そしてついに、遺言書は完成した。

「先生・・・・これを・・・・私が死んだ後に・・・・勇人に渡してもらえませんか。」
父親が手渡してきたものを見て、飯田は胸が熱くなった。



「先生・・・・息子のこと、どうかお願いします・・・・・」
「わかりました。必ず渡します。そしてあなたの思いも一緒に私が伝えます。あとは何も心配要りませんからね。」
「・・・ありがとう。先生。先生に頼んでよかったなあ・・・・」

最後に、堅い握手を交す。二人とも、泣いていた。



この日から1週間後、井口は鬼籍に入った。
あのときのやりとりが、二人が最後に交した約束になってしまった。

手紙。

葬儀は会社関係者が多く、盛大なものになった。それだけでも故人の人望の厚さを知るに十分だった。

家族でたった一人残された制服姿の息子は涙を流しながらも気丈に前を向き、ぐっと耐えている。
その傍らには、父の妹である叔母が彼の手に自分の手を添えていたのが印象的に映った。



「勇人君、ちょっといいですか。」

葬儀のすべてが終わったところで、飯田が息子の勇人を呼んだ。
病院でも何度か顔を合わせているため、勇人も飯田の顔は知っている。

「勇人君。お父さんからこれを預かっています。」

遺言状とは別に、飯田が預かった手紙があった。
まだ一人で暮らしていくには若すぎる息子に宛てた、父からの最後の手紙だった。

「勇人へ」。

そう書かれてある手紙は、父が自筆でしたためたものだ。A4用紙に6枚。


早くに逝く自分を詫びる言葉とともに、これから生きていく心構えが事細かに書かれてある。
遺される子を想う父の、深い愛情が感じられる文面だ。

勇人は頷きつつ、涙で顔をくしゃくしゃにしながらその手紙を読んだ。
勇人の肩に手を掛け、飯田がやさしく言った。

「・・・・読んだ次の日からはもう泣くな、前だけ見なさいと伝えてくれって、お父さんに言われています。
僕にも何かあれば力になってやってくれって。だからこれから何でも相談してくれていいんだよ。
だから・・・頑張ろうね。」

「はい・・・・」 と小さく答えながらも、勇人は涙が止まらないようだった。
一呼吸置いて、飯田が口を開いた。
「実はね。・・・・・僕がお父さんから預かったものはこれだけじゃないんだよ。」

父の愛。

「他にもあるんですか?」 涙顔の勇人が飯田に尋ねる。

「これです。ただし、今見るものではないんだ。これから君が生きていく節々で宝物になるものです。」
飯田がそう言いながら鞄から取り出したもの。

それは三通の手紙だった。そこにはそれぞれこう記されていた。

「20歳の君へ」

「30歳の君へ」


そして、最期の一通。そこには・・・・

「父親になった君へ」 ―――――――――

それを見て、泣き虫の勇人はまた泣き出した。

「君がそこに書かれている歳になったとき、その手紙を読んでください。それまでは大切に保管しておくんだよ。」

父は病床でだんだん動かなくなる体に鞭を打ち、必死の思いでこの4通の手紙を何日もかけて書き上げたのだ。
だから手紙の後半は、文字も震えたようになっている。痛みとも闘っていたのだろう。

「君のお父さんほど強くて、素晴らしい人を僕は見たことがありません。
この手紙は君のことを命がけで思い、命がけでしたためられたものだからね。それから・・・・」

泣き崩れる勇人に、飯田は優しく伝えた。

「お父さんの話がしたくなったら、いつでも僕の所にいらっしゃい。待ってるよ。」

涙を拭い、一度ニコッと微笑んで、勇人が飯田に言った。
「大人になるまでなくさずに持ってなきゃいけないね。僕、大丈夫かな?」

「万が一のために、僕もお父さんからコピーを預かってますから。心配いりませんよ。」

「そうですか。よかった。ありがとう。先生。・・・なんか今すぐにでも見たいけど・・・・我慢して、大切にします!」

別れの悲しみを癒すものは時間だ。これからの人生をずっと見ていきたいと思う。

父から息子への最後の愛情。そして執念。それを感じずにはいられない一件だった。

ほの国へようこそ!

新幹線の豊橋駅を出ると、『ようこそ穂の国 豊橋へ』と書かれた看板がある。

『穂の国』とは東三河エリア(現在は豊橋市・豊川市・蒲郡市・新城市・田原市・設楽町・東栄町・豊根村の8市町村)の大和朝廷(古墳時代)における名称。
今、東三河のもうひとつの呼び名として定着している。

京都に住んでいた頃、身近に路面電車があって好きだった。
豊橋という土地に初めて行った時、目に入ったのが懐かしいあの路面電車。


「ここ、いいなあ・・・・・」

実際にこの土地で働いてみて、豊橋の土地柄やここに住む人々の温かい人柄が大好きになってしまった。

「将来、自分で事務所を出すなら絶対にこの豊橋にしよう!」
それだけは決めていた。

事務所のコンセプトは“ほっと安心できる場所”。
つまりこの街のようにありたいと思った。
だから迷いなく決めた屋号、それが『ほの国法律事務所』。

「相談に来られた方に安心して頂ける場所を常に意識しています。場所も豊橋駅近くの場所にしました。」

ほっとする人。

初めて飯田に会ったとき、大きな瞳とほんわかした笑顔が印象に残った。
そして何よりも丁寧で優しい声に安心感を感じたものだ。これほど柔らかな声の大人に出会ったことがない。

飯田稔は巷で言うところの”弁護士”という肩肘張ったイメージの人物とは大きく外れていた。
相談者はなぜか高齢者が多い。そこから紹介を受けるためか、紹介されてやってくる方もやはり高齢者の方が多くなる。

「先生。あんた、声がいいねぇ。」 やはり、よくそう言われるのだと言う。

おじいちゃん・おばあちゃんたちの年代の、ゆっくりとした時間に合わせられるこの声のトーンと柔らかさはまさに適任だろう。

共働きの両親に代わって祖父母に育てられた。祖父母のペースに慣れているために、高齢者の方々に合わせることができる。
そして、とことん付き合う。

 ■飯田 稔 いいだ みのる プロフィール









 昭和47年生。津島市で育つ。
 津島市立藤波中学校、愛知県立五条高校、同志社大学法学部卒。
 弁護士。ほの国法律事務所所長。
 不当要求拒否に加え、交通事故・相続業務に力を入れる。
 “本当に守られるべき、正しい側につける弁護士になりたい”。その思いを胸に、
 3年弱の事務所勤務を経て、豊橋にほの国法律事務所を開設。
 特技はボウリング。パーフェクトを出したこともあるほどの腕前。
 愛車は97年式のチョコレートカラーのミニクーパー。外はシック、中はゴー
 ジャスにと依頼して作ってもらった世界でたった一台のミニだ。

じいちゃんとばあちゃん。

共働きの両親に代わり、飯田と弟の面倒を看てくれたのは専ら同居していた祖父母だった。
「典型的なおばあちゃんっ子ですよ。」 と飯田は言う。
祖母は絶対に人の悪口を言わない人だった。

「稔。いいかい。人の悪口だけは言っちゃいけないよ。差別もしちゃいけない。
悪いことは人が見てようがいまいがだめだよ。ちゃんとお天道さまは見てるんだから。」
いつもそう言われたものだ。
昔から高齢者の方々にはかわいがられた。

同志社大学法学部に入学。このときは弁護士を目指していたわけではない。
入ってみて”ああ、弁護士っていいな”。そう思うようになった。






仕送りなしだったために、アルバイトは必須だった。早朝6時から8時まで、毎朝パン屋でパンを焼いてから大学へ。
講義のない日はそのまま次のバイト先へ向かう。

差別を嫌う祖母の下で暮らしていた間は、差別問題を目にすることも、感じる機会さえもなかった。
ところが、京都というところは差別も未だ根強く残った町だった。
住んでいるエリアでさえも、はっきりと線引きがされていることは明らかであった。
これが社会の現実なのか・・・・。ショックだった。何ができるわけでもない。しかしこの日のことは今でも鮮明に覚えている。

アルバイト時代。

大学卒業後、アルバイトをしながら生活費だけ工面し、あとはとにかく司法試験の
勉強に費やした。アルバイトはパン屋、引っ越し、土木工事、パチンコ屋の清掃など、何でもやった。

「働きながらの勉強はやっぱりハードでしたね。」 飯田は言う。

1年目2年目3年目。年々点数は上がるのだが、4年目あたりから伸び悩む。
4年目。5年目。だんだん焦りは膨らんでくる。あと少し、あと一歩と思うのだが、なかなかその「少し」が取れない。

6年目はいいところまでいった。

“次こそは、いける!!”

しかし、最後の挑戦と決めて臨んだ7回目の挑戦も空しく散ってしまう。
「もう、疲れた。止めよう・・・・・」

飯田の挑戦は7年で終わった。

30歳の時、ボウリング場に就職。飯田にとって初めての就職である。
趣味のボウリングはプロ級だった。どんどん上手くなる自分に酔ったこともある。
パーフェクトも出したことがあるほどだというから相当なものだ。

そんな時、飯田の人生を変える企画が持ち上がる。

シルバー世代のアイドル。

「飯田くん、シルバー世代のお客さんたちの教室のインストラクターやってくれる?」

「あ、はい。わかりました。頑張ります!」

願ったり叶ったりだった。集客のための作戦として会社は考えたのだろう。しかし
元々笑顔で優しく接し、教え上手な飯田の受けは特にシルバー世代のお客さん
からは抜群に良かった。そんなお客さんの相手をすることは楽しかった。
会社もそれを知っていてのことなのかもしれない。

シルバー世代向けの飯田のボウリング教室は賑わい、しっかりとファンも付いた。

「私らがここに来るのはあなたに会いたいからなんだよ。」

ニコッと笑って高齢者の方にそう言われたこともある。
嬉しくて、涙が出そうになるのをこらえたものだ。

“おじいちゃんおばあちゃんたちを相手にする仕事は天職かもしれないな・・・・・”
そう思ったのもこの頃である。

そんな教室の後は生徒さんたちと皆でお茶を飲んだ。
そのときに出て来る話題。それがいつも健康の話題と相続の話だった。


「私らも自分が死んだあとのことを考えにゃならん。相続でモメても、ねぇ。」
「うちは子供らも仲いいから大丈夫だと思うけどなあ。」
「吉永さんとこなんか、仲良かったけど息子らが揉めて揉めて、いまだに裁判やっとるがね。」
「うちらもそうならんようにしないかんわねぇ。」

死んだあとのことまで考えないといけないとは、大変だな・・・・その時はそんなことしか考えていなかったのだが・・・・・

悔し泣き。

ある時、招待を受けて先輩の結婚式に参加した。昔一緒に司法試験の勉強をしていた四人の仲間たちも来ていた。

ショックだった。久しぶりに会うその四人は全員、弁護士になっていたからだ。

「飯田は今、どうしてるの?」

体中を駆け巡る気恥ずかしさと悔しさ。夢を途中であきらめてしまった自分に対する怒りも手伝い、俯いたまま時間が過ぎていく。

“一刻も早くこの場から立ち去りたい・・・・・”
気が付けば自然と泣けてきた。涙が溢れて止まらないことなど、初めてだった。

家に戻ってからベッドに横たわり、一人考える。

これでいいのか?・・・・
なぜあきらめてしまったのだろう・・・・・



いや・・・まだ行けるんじゃないか?こんな思いは、もう嫌だ・・・・・よし。もう一度挑戦しよう。

俺は弁護士になる。必ずなる!

この日、飯田はそう決意した。

後悔は今日で終わりだ。

はぁ?

翌日、ボウリング場の支配人に退社を伝えに行った。理由もはっきりと伝えた。

「司法試験の勉強ぉ?今さらか?いやぁ、はっきり言って君には無理だと思うよ。
悪いことは言わんからやめとけって。なあ?」
「手遅れだよ。地道に働いた方がいいって。」 先輩社員も反応は同じ。

お世話になりました、とだけ告げて3年間務めた職場を後にした。32歳の時だ。

失業保険をもらうためハローワークに行った。
窓口の職員にこれからどうするのかと聞かれ、司法試験の勉強をしますと正直に言った飯田に、

「そんな、あなたね、今からなんて無理だから他探しなさい。」
職員は”なにを言ってるんだ”と言いたげに冷たく言い放った。

“今に見てろ!次は死んでも受かってやる!!”
飯田はそう固く誓った。


今回の受験期間はバイトもしないと決めた。実家に頭を下げ、勉強に集中できる環境を作ってもらった。
1日平均15、6時間の勉強。まさに死に物狂いである。

疲れてきたらバカにされた面々を思い出すだけでモチベーションは上がった。
“人生に無駄はない”。飯田はそう考えて勉強に打ち込む毎日を送り続けた。

手応え。

リベンジ最初の試験は不合格。しかし過去最高得点をマークできたことで手応えを感じたことは大きい。

“次こそは絶対にいける!!”
しかし、親に『もう1年』というのを伝えるのは辛かった。

「もう1年、どうしても頑張りたい。あきらめたくないから挑戦させて欲しいと頼みました。
父親は一言、納得いくまでやってみろと言ってくれて・・・・ありがたかったですね。」

親のありがたみを感じ、涙が出た。やるしかない。

試験前夜。

試験前夜。毎年ネックになるのは論文だった。飯田にとって司法試験=論文。
これさえクリアできれば合格できるのはわかっている。
この一年、論文対策にのみ時間を費やしてきた。

9度目の挑戦。やるべきことはすべてやった。やり尽くしたと言ってもいい。

試験前夜は意外なほどぐっすりと眠れた。


結果発表の日。
今までにない緊張感で、朝から何も手に付かない。発表はインターネットで見ることができる。家にいても全く落ち着かないために意味もなくウロウロする。

祈りながら、恐る恐るページを開く。・・・・・怖い。まずは関係のないニュースのページを見て心を落ち着かせた。
深呼吸をしてからページを開く。心臓は破裂しそうだ。

発表。

“頼む!!受かっていてくれ!”

・・・・・・・・。・・・・・・・・・・・!!!!
「うおおおおおおお――――――っ!!やった―――――――っ!!」

飯田稔、9度目の挑戦は見事に花開いた。
めったに感情を表に出すタイプではない飯田が、この時ばかりは喜びを爆発させた。

自分を馬鹿にした人間の顔も浮かんだが、あまりの嬉しさにすべて許せてしまった。
あの怒りをバネにできたからこそ頑張れたと思うと、あの人たちの存在も自分にとってはすべて意味があったと思えた。

外出していた母親にメールした。合格の知らせと、わがままを許してもらった礼だ。

母からはすぐに電話がかかってきた。泣いていた。

「おめでとう・・・よく頑張ったね。・・・・・よかったね・・・・・。
ご苦労様でした。お母さん、今までで一番の親孝行をしてもらいました。ありがとう・・・・・」

「うん・・・・・うん・・・・・・・今まで本当にありがとう・・・今まで心配かけた分、これからしっかり返していくから・・・・・・」

その日は飯田家にとっても、人生最高の一日となった。

ついに、悲願だった弁護士になった。(愛知県弁護士会 2008年登録No.37469)

一度、挑戦をやめてしまったこと。それは必要なことだったのだと今は思う。
社会勉強をし、そしてどん底から這い上がることができたという自信も得た。

さあ、これからだ。

「こんな相談もどんどんして欲しいですね。」

特に力を入れているのは交通事故・相続問題だ。
しかしその他にもこんな問題を含め、あらゆる法律問題に対応している。


●債権回収(売掛金・貸金等) ●不動産トラブル 

●借金問題 ●不当要求の拒否 

無論、企業の顧問契約も行っている。今はクレーマー問題も含めた自衛策も必須。
そして社員との間の労務、労働問題も増加しているのが実情だ。
ならば転ばぬ先の杖として、気軽に相談でき、しかも心強いパートナーとしての弁護士は当然存在したほうが心強い。

「経営者が経営に集中できる環境作りの一環として、法律家は近くにいたほうが安心感が違います。お気軽にご連絡ください。」

勝つべき人が勝つ裁判じゃなければ・・・・・

「本当に勝つべき人を助けたい!」。

その想いから弁護士になった。
裁判で本当に勝つべき人が負け、泣くシーンをたくさん目にしてきた。

「これでいいのか・・・・・?」
これはずっと疑問だ。資本の原理で決まる裁判など、あってはならない。

暴力追放愛知県民会議にも所属する。暴力団からの依頼は何があっても一切受けない。
相手が暴力団でも屈しないことをモットーにしている。




暴力に怯えることのない街にする。そのための活動はやはり弁護士や警察の力なしでは難しいと思っています。だから私も頑張ります。


ほの国の人びと。

仕事がうまくいったとき。飯田が立ち寄る行きつけのBarがある。
豊橋で一番歴史のあるこのBarは60過ぎのマスターと奥さんが二人で切り盛りしている。
懐かしい昭和の香り漂う雰囲気は、来るたびに飯田をほっとさせてくれる。

出て来るお通しは三種類ほど。
一杯目はハイボール。それをサントリーの『白州』で作ってもらうのが好きだ。

ここでだけ会う飲み仲間も、飯田にとっては嬉しい存在であり財産。
店の壁には豊橋出身のフランス・コルシカ島在住でフランス芸術文化勲章まで受けた洋画家・
松井守男画伯が描いてくれた飯田の似顔絵もある。

独立開業を決めた時、ここのマスターにしみじみと言われた言葉も忘れられない。

「稔くんが豊橋で開業してくれてよかった。・・・・ありがとうね。」
マスターもまた、この街を愛する一人である。

酒なら何でも来いだが、特に好きなのは日本酒。地元津島の「長珍(ちょうちん)」、
そして「義侠(ぎきょう)」がお気に入りだ。

ほの国法律事務所。



普段は温和な飯田だが、こと仕事になれば相談者を守るため、その表情を一変させる。
相手に対してはここまではっきり言うかというほど強くなるのだ。

「私を信じて、頼って来てくれている人のためです。依頼者を守るためなら、それはやりますね。」 
飯田は少し照れ臭そうに答えた。

ばあちゃんへ。

「あんたは私が育てた子だから、嘘はつかん。努力もするだろう。だから人様に好かれる、
困った人の役に立つ人間になりなさい。」

祖母がいつも言っていた言葉は常に自分の胸にある。
今、祖母に話したいことがあるとすれば何か、と尋ねた。

「『時間かかったけど、夢だった弁護士になったよ。』 そう伝えたいですね。」

本当に守られるべき人を助けられる、素晴らしい仕事だと思う、と飯田は言う。

「毎日考えることも多いけど、自分を頼ってくれる人たちがこの街には大勢います。それだけで
幸せなことだと思うんです。ばあちゃんに恥かかせないような生き方をしてきたつもりだけど、
『これはばあちゃんがあっちの世界で人に自慢できるようなことかな?』というのは僕が何か
やるときの判断基準のひとつです。」


飯田は自宅の神棚にいつも祈ると言う。
「これからも豊橋の人に頼られる、全力で助けられる弁護士になるからどうか見守ってください、いつもそれです。」

信念。

高齢者の方達はこれまで地域を、そして日本を守ってくれた人たちだ。
この方々に安心して余生を過ごして欲しいと思う。
だからその中で起こるトラブルに関しては絶対になんとかしてあげたいと飯田は考える。

本当に守られるべき人を助けることが自分の使命だと思っている。
だからたとえ依頼があっても暴力団側には付かない。たとえ弱者の側の人の依頼であっても
「もっと賠償金を取って欲しい」というような自分本位のクレーマー的な依頼も受けない。



「正しい、正しくないは裁判に関わらず誰もが自分の心の中に持っているものだと思うんです。
皆が自分の良心に訊ねた上で裁判にしたら、余分な裁判もなくなるはずです。」

そう飯田は言う。

「弁護士だろうが何だろうが、やはり正しくない仕事はできないんですよね。」

それゆえに、本当に勝つべき人のためには全力で力になる。やれることは徹底的にやる。


「馬鹿正直を超えて、馬鹿って言われるかもしれません。でも自分に嘘をつく仕事は
死ぬときにやっぱり後悔すると思う。僕は自分の遺言書には『我が人生に悔い
なし』と書きたいですから。」

自分にも、この街にも恥じない仕事をしていきたい。それこそが飯田が死ぬまで守ると決めた自分自身との約束だ。

ほの国を誇る弁護士は、やがて”ほの国が誇る弁護士”になっていくだろう。

その時を大きな期待とともに静かに待ちたい。そう思う。

文責/近藤直杜

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